グッバイみすたー ①

三週間ぶりです

ちゃんと生きてます

 

 

さて、一か月前に大学とサークルを無事満期で卒業することができました

特にサークルに関しては大学生活の中でも断トツで力を入れて大騒ぎしまくっていたのでどこかでちゃんと記事にしたいと思っていました

 

というわけで今回以降は某団体での思い出を永遠に書き連ねていこうと思います

クッソ長くなりそうですがただの自己満なのでそっとしておいてください

 

今回は1年春

 

①なぜメンバーになったのか

猿山に入学することが決まった三月の段階で、何かこれをやろう!と考えていたわけではありませんでした。中高と吹奏楽部で大騒ぎしていたのでまた音楽系のサークルにでも入ろうかなあ…と思ったりはしていましたが、どうにも固まらない状況の中大学のHPに載ってたサークル紹介のページを眺めていました。するとあるサークルの名前が目に飛び込んできました。

 

児童文化研究サークル 「あかとんぼ」

 

児童の文化を研究!?なんだこのサークル!?とは思いましたが特に興味を持つわけでもなく終わりました。しかしこんな奇天烈な名前のサークルがあるんだなあ…という記憶は確かに残りました。

後々考えればこれが僕と某団体の最初の出会いだったわけです。そう考えると「サークルの名前を覚えてもらう」というのは新歓において非常に重要なことなのではないでしょうか(新歓終わってからこんな話をするな)

 

そんなことがあって入学。どうにかして錬成した友人(これに関しても偶然の巡り合わせ×2によってできたものだから人生とは成り行きなんだなあと思います)とサークル巡りを始めることにしました。かるたサークルのキャッチに捕まり話を聞く羽目になったり、ちょっと興味があったジャズサークルが思ったより陽キャだったので辟易したり…色々回ってはみましたがどうもピンとくるサークルはありませんでした。

その後友人と別れ単身でもう一回新歓ブースをぐるぐるしていたところ再び熱烈なキャッチに捕まりました。今度はなんだよと思っていたら音楽やら映像やらを創作する団体でした。私は高校時代よりちょくちょく音楽を錬成していたため興味を持ち、ブースで説明を聞いた後入部することにしました。これが後々チルコンでお世話になる某団体Mになります。

 

というわけで入るサークルが決まったのですがその団体の活動日は月曜のみ。私は一年生にして水曜の昼と金曜土曜が完全フリーなトンデモ時間割を組んでいた(その分月火木は一限から空きコマなしでギッチギチ)のでその空き時間でもう一つぐらいサークル活動したいなあ…と考えました。それに合致するサークルを探した結果…この間HPでみたトンチキな名前のサークルがその条件で活動している、ということに気づきました。

子どもと関わるのは元々好きでしたし、当時の私は某NHK教育番組のオタク最熱期でありましたからその辺に関する知識が「児童文化」とやらで活かせるのでないか…となりました(実際結構活きた)。というわけで入るか…と思い、ボラフェスやら花見新歓やらを経て入団することになりました(この間にもひと悶着あったような気がするが面倒なので省略とする)

 

結論僕が某団体に入った要因としては

①団体の名前を知っていた

②「児童文化」とやらに興味があった

③水曜昼の活動というのがマッチしていた

ということになります。先にも後にも「児童文化研究サークル」だから入団した奴は僕ぐらいのもんだと思っています。

 

入団したメンバーの皆様は確定新歓(今となっては信じられないことかもしれないがこの時代の確定新歓は普通の飲み会であり、なんなら新入生も飲みたい奴は飲んでいた)にてサークルネームがつけられることが慣例となっています。私についてもサークルネームを決めよう!となりましたが高校時代からのあだ名を提案したところ二つ返事で受け入れられてしまいました。愛着のある名前でしたし後悔などは一ミリたりともしていないのですが、それはそれとして先輩方に名付けられた場合私は一体どんな名になっていたのだろうか、というのは少し興味があるところではあります。あの頃はまだトンチキサークルネームが付けられていた時代でしたからね…。(それに関してはやはり酒の席、という部分が大きいのだろうと思う)

 

②プログラムに魅せられるまで

御存じのようにサークル馬鹿として大学生活の半分以上をサークルに捧げてきたといっても過言ではない私ですが、入団当初はそこまで真面目に活動しようとは思っていませんでした。寧ろ当時はもう一つのサークルの方がメインだと考えており、あかとんぼの方はのんびり参加するか~とか考えていました。とはいえ私は中高を吹奏楽部とかいう体育系文化部で過ごした部活人間。休みとは縁がない生活をおくっておりそれが当たり前だとも思っていたため、特に用がないときには活動に行こうということでまあまあな頻度で活動に臨んでいました。

先述の通り私は水曜昼は完全フリーだったのでプログラム要員の一人に数えられていました。さらに新入生の中で水曜フリーだったのが僕ともう一人ぐらいしかいなかったこともあり、既に二回目の訪問の時点でゲームを任されていました(よく考えたら5月の頭からゲームメインでやってたの中々の英才教育だと思う)。そんなこんなである程度場数を踏んだ頃、紙芝居の担当が回ってきました。題材は「おしゃべりなめだまやき」です。

これの練習、そして実演が一つの転機であったと思います。まず一緒に組んだ先輩の演技に衝撃を受けました。一個上の先輩だったのですがあまり上手に声を変えてくるので、一回目の練習では抱腹絶倒し次のセリフが声に出せなくなったほどです。そしてコツをいくつか教えていただき実演してみると案外うまくいきました。あの練習を通して私は「人は案外声を変えて話すことができるものだ」という認識を持つことになりました。練習会は2・3度行われ、そのたびに先輩方から手厚い指導を受けた私は自分でも成長を実感していました。

本番当日はさすがに緊張しました。皆で盛り上がるゲームとは違い紙芝居は基本的に静かな状態で聞いてもらうもの。ちゃんと聞いてくれるかどうかと不安でいっぱいでした。さらに訪問先の学童がまあ評判のよろしくないところらしい、というクソみたいな事前情報を入手していたため大丈夫かな…と思っていました。しかし心配は杞憂に終わります。子どもたちは静かにきいてくれていたし笑うところでは笑ってくれるし、終了後の質問タイムではみんな積極的に手を挙げてくれるし…。見ていた先輩方からもよかったというお言葉を賜りましたし、プログラムに対しものすごいやりがいを実感することができました…が…。活動終わりの指導員さんとの反省会。なんとそこで紙芝居について酷評されてしまいました。

元々その学童では反省会がハードなことになる、ということは知っていたのですがまさかプログラムまで口出しをしてくるとは思っていなかったので頭が真っ白になりました。さらにボッコボコにしてきたのはなんと演劇やらなんやらで働いていた実績のあるらしいパートの叔父様。流石の眼で我々の穴をことごとく突いてきました。こちとらアマチュア集団しかも僕に至っては実演一回目だぞそこまで言うことないだろう、とも思いましたがその酷評内容はどれももっともかつ私の発想になかった箇所でありました。

今のままでも満足のいく出来にはなっているし子どもたちの受けもいい。でもそれはそれとして本業の人からしたら足りない部分はまだまだ多い。嬉しさと悔しさをお土産に、その日の学童訪問は終わったのでした。複雑な心境の中帰りに先輩方に連れられ食べた無双屋の味は忘れられません。あれのどこが旨いんだ、本当に…。

それ以降私はプログラムにのめり込むようになりました。正直子どもたちからしたらどんなものであれ新鮮なものだし楽しんでくれることに疑いはありません。しかしそのさらに上をいくにはとことん場数を踏み、子どもたちの生きた反応を見ながら改善していくほかありません。少しでもうまくなるために。そしてたくさんの子どもたちの前でプログラムを披露できるように。私は学童訪問に欠かさず行くようになったのでした。

 

 

もう少し先まで書こうかなと思ったのですがいつのまにか3000字超えてたので次回に続きます