7月下旬、父方の祖父が世を去りました。享年91*1。
わたくしの祖父母は皆90近いですが亡くなったのは祖父が初めて。さらにその上の世代は私が1歳の頃までに皆亡くなっていますので、私にとってはこれが直系の親族を失った最初の経験になるわけです。*2
それからしばらく経ちましたので、ここでこれまでにあったことと思ったことなどを備忘録として残そうと思います。
私事ではありますが、私は3人兄妹の長男にあたります。また、私の父親は一人っ子です。
つまるところ、私は父方の祖父母にとって初孫にあたるわけです。
祖父母は比較的近くに住んでいることもあり、私達のことをたいそうかわいがってくれました。とくに初孫であたる私に対しては格別の思いをもっているようであり、何かにつけてよくしてくれました*3。我々はそんな祖父母のことを「じいじ」「ばあば」と呼んでおりました。
妹はとくに祖父に懐いていました。祖父母が会いに来るたびに祖父にくっつき、バレンタインデーの時などは自分のお小遣いでチョコを買い、祖父にだけあげるなどしておりました。
では私がじいじのことをどう思っていたかというと……正直言ってどうも思っていませんでした。七五三等節目の行事がやたら豪勢であったり、学校行事やらなんやらには必ず駆けつけてくれたり、お正月には3兄弟1人ずつに年賀状を書いてくれたりと、今考えると大切にしてくれていたなあ…と思うわけですが、そのようなありがたみも子どものときは分からないものです。別に祖父のことを苦手にしていたわけではないのですが、基本的に物静かな人間でありましたので、会うと楽しいというわけでもなかったのです。逆に母方の祖父母はやたらエネルギッシュで話題に事欠かないことから、子どものころの私はどちらかというと母方の祖父母に懐いていたような気がします。
さてそんな祖父ですが、80歳を超えたころからちょくちょく体調を崩していました。喫煙者であったこと、また仕事柄アスベストを摂取しまくっていた*4ため肺を患っていたほか、胃を悪くしたりもしていたと記憶しております。それでも頭はしっかりしており*5、身体も杖などなしに動かすことができていました。今年私は正月、そして2月に帰省し、そのたびに祖父に会いましたが、少しずつ弱っているという話を聞きつつまだまだ元気じゃねえか、と楽観視していました。
とはいえ祖父は自分がそう長くはないということはわかっていました。特に初孫たる私の結婚相手、そして曾孫については興味をもっており、一目見たいが難しいだろうなあ…などとよくぼやいていました。私はそれを聞き若干の焦りを覚えつつも、(でもまだ数年かかるだろうしなあ…むしろそれを生きがいにもう少し生き永らえてもらうか…)などと呑気なことを考えていました。
おっ…?と思ったのは今年のGW。特にやることもなかったため帰省し、祖父母にも会ったわけですが、どうも様子がおかしい。いつもは玄関で迎え入れてくれていたのに現れず、それどころかベッドで寝ているというのです。そのような姿を見るのは初めてであるため驚きました。
さらに会食先。行きつけのステーキ屋に長らく行っていないな…ということでそちらに行ったのですが、今までは普通に平らげていたステーキをほぼほぼ食べられず残してしまっていました*6。これは店選びをミスったかなあ…と思うと同時に、これは結構弱っているのかもしれない…?という思いが強くなりました。結果としてこれが最後の会食となってしまいます。
月日が経ち6月。どうやら月初めから祖父が入院しているらしい、と聞いたのは中旬も過ぎてからでした。そういう重要なことは早めに教えてくれよ…とぼやきつつ、まあ栄養剤いれるだけらしいしすぐ退院するでだろうと高を括っていました。
そんなある日曜日。私は部活の付き添いでコンサートホールにいました。リハも終わり、昼ご飯の買い出しにでも行くか…とスマホをみると、家族LINEが動いています。
「ジジ危篤。今ICU。」
ちょっと待て。
急な知らせに私は完全にパニックに陥ります。慌てふためき取り敢えず両親に連絡を取りますが、どうやら向こうも向こうでまだ全容がつかめていない様子。
どうするか…?とはいえ今ここで戦線離脱するのはちょっと厳しいし…そして明日以降の仕事どうするのか…?様々な考えが頭をめぐりますが、取り敢えず昼ご飯を調達しなければいけない。私はコンサートホールを出て、近くのコンビニに向かいます。その道中、ふと道端にある某宗教施設に目が留まります。
「信仰によって容態がよくなるというのであれば、僕は仏教にでもキリスト教にでもなんにでも入信してやるぞ…?」とその時ふと思いました。この時勧誘などを受けていたら確実に入信していたでしょうね。人が宗教にのめりこむきっかけはこのようなものなのかもしれません。
実家から再び連絡が入ったのは数十分後のことでした。どうやら容態が悪くなりICUに入ったというのは本当ですが危篤というのはオーバーな表現だったよう。ほっと一安心。ICUからも五日ぐらいたてば出れるということなので、取り敢えずその日はそのまま仕事をこなし、翌週末に故郷に帰ることにしました。
一週間後、病院で見た祖父の姿は…思ったより元気でした。顔も元気そう。会話もしっかり通じるし、何なら飲食厳禁のくせにカルピスだのミルク飴だのを欲しがる始末*7。せっかくだし用意してやるか…と購入まではしましたが、色々怖いのであげるのは我慢。
とはいえおびただしい数のチューブが身体につながれていましたし、身体がむくみ瘦せ細っていた腕がえらい腫れているな…ということに気づきます。足についても同じぐらい腫れているのですが…なぜか左足だけ磨かれた石のごとくピカピカです。
わたし「どうしたのこの足」
母「どうやら足をさすると気持ちがいいようでね、毎日お見舞いのときにばあばがずっとさすっているのよ。その結果ピカピカなわけ」
わたし「水滴石穿*8とはまさにこのこと」
さらに数値的にはそこそこ悪いようで、血中酸素濃度*9は90前半。しかも常時鼻に酸素チューブをあててのこの数値なため、ちょっとチューブが外れるとがっつり数値が下がりアラームがなるという状態。ただこれは容態急変後一時的なものということであり、しばらく経てば転院もできる*10とのこと。一時はどうなることかと思ったがまあ元気そうで良かった、また夏に帰ってくるからそれまでに元気になっておくんだぞ、と握手をし、病院を去ります。
これが祖父と直接交わした最後の会話となりました。最後という可能性については頭の片隅にはあったのですが、それを考えたところでいいことはないため、この時は頭の片隅の奥底にしまっておくことにしたのでした。
想定以上に長くなったので今回はここまで、次回に続きます。
*1:実際には89歳で亡くなっているわけだが享年は数え年換算らしい。へえ~
*2:傍系では昨年年上の従兄弟が亡くなりその通夜葬式に参列しています。弔いの場への参列はそれが初めて
*3:例えば車のナンバー4桁は私の誕生日だったりした
*4:それにより元勤務先から特別に年金が下りていました、そのため生活に困ることは一切なかったようです
*5:祖母は最近おかしい、とよく言っていたがたまに会う分にはついに最後まで違和感を覚えなかった
*6:よく考えると90近くになっても1人前の肉を当たり前のように平らげていた今までがすさまじかっただけかもしれない
*7:祖父はたいへんな甘党であった
*8:努力を積み重ねていくと大きな結果に結びつく、という意。私の高校時代の学年目標でもある
*9:常人は98~99%が普通、90前半より下回るとまあまあやばいとされる
*10:祖父が入院していたのは結構デカい病院だったが、そう何か月も入院することはできないのであった













